【生まれながらの仙台藩主】
万治2(1659)年5月、20歳のとき第三代仙台藩主として初入部。政
宗、忠宗と続き、一応の成果を上げてきた仙台藩の藩政もこの綱宗の代で初め
て危機的状況に瀕する。父の偉業を間近で見て育ちその藩政の取り組んだ忠宗
とはちがい、綱宗はまさに創業期の仙台藩を知らずして藩主となった「苦労を
知らない三代目」なのである。組織が短命となるか永続するかは世襲制を第一
とする封建社会において、三代目の働き次第であるといっても過言ではない。
事実、足利幕府三代将軍義満、同じく徳川幕府の家光など、三代目が聡明であ
ったため、組織が永続した例は多い(これと正反対なのは毛利輝元か?)。綱
宗の場合はもちろん、20歳という若さも災いしてか、政治よりも芸術、芸能
を好み、遊興にふけることも多かったという。奉行の古内重広が「若殿の酒が
心配」という遺言を残したという逸話もある。すでに藩内においては綱宗を蟄
居させるべきであるという意見もではじめていた。また、この綱宗の不行跡は
すでに幕府の知るところともなり、首席老中の坂井忠清は伊達家62万石を分
割させるという案をもっていた。これに対し仙台藩の一門、奉行等はこれらの
危機を乗り越えるために解決策を検討、出された結論は幕府に対し、綱宗の隠
居願と綱宗の実子亀千代の家督相続願を提出するとうものであった。これらの
願いは幕府に認められ、綱宗は逼塞、仙台藩は一応の危機を乗り越えたのであ
る。
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