摺上原古戦場

(福島県耶麻郡猪苗代町)
   

  ●伊達氏と葦名氏による奥州No.1決定戦  応仁の乱に端を発する足利将軍家の権威衰退は、日本 全国を動乱の渦に巻き込む戦国時代到来の引き金となり ました。全国各地の戦国大名は「あわよくば自分が天下 に号令を」と、こぞって自国の領土拡張に乗り出します。 鎌倉時代より続く奥州の名門・伊達家にとってもそれは 例外ではありませんでした。18歳で家督を継いだ若き 当主・政宗も若干遅れはするものの、積極的にこの天下 取りのレースに参加することになります。  まず、この時代の戦国大名は京都への上洛を第1の目 標とします。朝廷から官位を授かり、いわば大名家とし ての「格」をあげるというものです。おそらく政宗自身 にもこの構想はもっていたことでしょう。しかし、奥州 と京都ではあまりに距離が離れすぎています。ゆえに政 宗が本気で京都への上洛軍を進発させるならば、なにに

(1)摺上原三忠碑

もましてまず、奥州の地を手中に収めなければなりませ ん。そして奥州に確固たる基盤を築いて関東へ進出、そ こから上洛への道を辿らなければならないのです。つま り、奥州の地にてその勢力を2分していた伊達家と芦名 家が、天下取りと家名存亡をかけて戦場にて争わなけれ ばならないのはこの時代にとってみればいわば「宿命」 ともいえるものだったのです。  政宗はいわば「一代の英傑」とは異なります。つまり、 中国地方の毛利氏のように一国人領主から戦国大名へと 発展したのではなく、政宗の曾祖父・稙宗が陸奥国守護 に補任されていることからもわかるように、政宗が飛躍 するための基盤はすでに確立されていたのです。しかし、 この政宗の飛躍、つまりは奥州の地にての伊達氏の勢力 拡大は皮肉にも「反伊達連合」という反対勢力を生み出 してしまう結果となるのです。そしてその「反伊達連」

(2)磐梯山
 

 の中心的役割を担っていたのが芦名氏だったのです。  ●政宗の胸中に迷いなし!ついに芦名討伐に動き出す!   これらの事情から、さすがの政宗といえども芦名氏  との直接対決には慎重にならざるをおえません。しか  し、前述のとおり、人取橋の合戦での奇跡的大勝利は  伊達の武威を奥州に轟かせるとともに、政宗自身にも  大きな自信を与えました。つまり、ここにきて政宗は  好機到来とばかりに宿敵・芦名氏討伐に乗りだすので  す。   政宗の芦名討伐を決意しからの行動は迅速で、芦名  方の安子ヶ島、高玉城を一気に落とすや、返す刀で相  馬方の駒ヶ嶺城、蓑頸城をも強襲しています。もちろ  ん、芦名、佐竹を中心とする反伊達連合も行動を開始  しており、ついに両雄は磐梯山麓の摺上原の地にて激  突するこになるのです。  ●2度目の奇跡!「風向き」が勝負の明暗を分ける!   天正7(1589)年六月五日朝、芦名義広1万6  000の兵を率いて黒川城から出陣、迎え撃つ伊達勢  も2万3000の兵をもって摺上原に陣を構えました。  開戦当初、西からの強風も影響し、芦名勢が優勢とな  っていました。後退を余儀なくされた一番備・片倉隊  に対し、芦名勢は追撃の手をゆるめませんでした。し  かし、この行動が芦名勢を2極分化することになり、  次第に芦名勢の指揮系統に影響を与えることになりま  す。そしてこの隙をついて伊達成実の別働隊が本陣の  すぐ近くまで進出し、芦名勢は大混乱に陥りました。  さらに、今まで伊達勢に不利となっていた風向きが追  い風へ変わり、伊達勢は攻勢に移り、ここにきて戦況  は大きく変化するのです。   もはや芦名勢にこの戦況を巻き返すだけの戦意は残  されていませんでした。次々と兵が敗走を開始、最終  的に3000余兵の犠牲をだし、芦名勢は崩壊してい  くのです。この戦を機に芦名勢の伊達勢に対する組織  的な抵抗は終わり、政宗自身、奥州の南半分を統一す  ることになるのです。   で、長くなりましたが、画像にある「摺上原三忠碑」  は敗走する芦名勢のなかで、最後までふみとどまって  戦死した金上盛備と佐瀬種常、常雄の3人の武勲をた  たえ、嘉永3(1850)年に会津藩主・松平容敬が  建立したものです。  ●参考文献  学研 歴史群像シリーズ19     伊達政宗【独眼竜の野望と咆哮】  学研 歴史群像戦国ベストセレクション 風雲伊達政宗  山川出版 福島県県の歴史散歩  及び現地説明板



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