●戦上手ばかりが英雄ではない!!治水の名手・川村孫兵衛!!
時代の転換期に颯爽と現れ、巧みな戦略で旧勢力を駆逐、そして新たな時代
を築く。後世、我々はこのような歴史上の人物を「英雄」として讃えています。
もちろん、これらの英雄は日本史上においてはごく少数です。次いで英雄とし
て讃えられるのは戦術に優れた人物、つまり、戦場において存分にその能力を
を発揮する戦上手の人物でしょう。どうやら我々はこういった戦略家、戦術家
ばかりを注目してしまい、平和の時代、内政その他で評価されるべき人物を見
落としているような気がします。伊達家中においてはこの川村孫兵衛こそ、そ
れに該当する人物だと思えます。自分も伊達家に関して深く追求するまではこ
の人物の名前さえ知りませんでした。ですが、この川村孫兵衛の偉業は仙台藩
の基盤、特に経済面で多大な貢献をもたらしています。「平和の時代の英雄」
孫兵衛の偉業とは?
●孫兵衛、北上川改修工事に挑む!!
川村孫兵衛は、天正3(1575)長州(現山口県)に生まれました。中国
の雄・毛利氏に家臣として仕えますが、関ヶ原の戦いでの西軍敗北後、浪人と
なっていました。その孫兵衛を近江(現滋賀県)蒲生郡で政宗が直に家臣とし
て召し抱えたとされています。
仙台開府後、政宗は領国経営に心血を注ぎます。周知のとおり、仙台藩は6
2万石と外様大名としては加賀藩の100万石、薩摩藩の74万石に次いで3
番目という広大なものでした。当然、仙台藩はこの広大な領地に見合った数の
家臣団を召し抱えなければなりまん。現在、我々は米を食料として認識してい
ますが、当時は大名の領地が「石高」という単位で与えられていることからも
わかるように、米こそが経済の根幹をなす重要な要素でした。つまり、これら
膨大な家臣団への「給料」も米であり、安定した藩政を維持させるためにも、
仙台藩の基盤整備に新田開発を行うことこそが急務だったのです。政宗は茂庭
綱元宛ての書状で以下のようなことを述べています。「家臣与える扶持が増加
して困っている。10人扶持(18石)を与える代わりに、開発すればその2
倍の36石になる荒れ地をあたえるようにしてはどうか」つまり、「2倍の給
料」を条件に、政宗は荒れ地の開発を家臣団に奨励したわけです。ですが、荒
れ地の開発には水路の確保が必要不可欠です。そこで政宗が目をつけたのが北
上川でした。北上川の流路を治水事業により変更させ、水路を確保しようとし
たのです。「自然の川」を「人工の川」へと変貌させる。これは過去に例をみ
ない大規模な治水事業となるでしょう。政宗がこのような構想を頭に描いたと
き、川村孫兵衛が歴史の表舞台に登場するのです。そしてこの孫兵衛の治水事
業をきかっけに、後に「仙台藩、実質石高百万石」といわれる新田開発がスタ
ートするのです。
1616(元和2)年、孫兵衛42歳のとき、石巻湾に注ぐ江合川と迫川を
合流させ、さらに北上川を合わせる三川合流を図る大事業が計画されました。
孫兵衛はこの治水事業に政宗の命を受け、現場の総責任者として参加しました。
工事費捻出のために自ら借財し、工事現場への泊まり込みなど、その孫兵衛の
苦労を現地の説明板は伝えています。1616(元和2)年に始まった工事は
1626(寛永3)年まで続きました。追波湾に注いでいた北上川の本流は石
巻湾に7割、追波湾に3割注ぐという人工の川へと変貌しました。
●そして石巻は東国最大の港町に
変貌した北上川の水源を利用して、政宗の奨励した新田開発が飛躍的に進展
したことはいうまでもありません。さらに仙台藩は農民から剰余米(余った米)
を貨幣で買い取るという政策も行い、仙台藩は実質石高百万石以上、全国でも
有数の米の生産地となるのです。
孫兵衛が治水事業行って以後の北上川は、「水源」以外にも「水運」として
も利用されます。これらの仙台米は、日本一の米の消費地・「百万都市江戸」
にて商いが行われることになります。北上川の水運を利用しての米輸送は石巻
を米の一大集積地、東国最大の港町へと発展させたのです。まさに今の石巻市
の繁栄はこのときの孫兵衛の偉業によりもたらされたといっても過言ではない
でしょう。
さらに「武江年表」の寛永9(1632)年の記述に「今年より奥州仙台の
米穀はじめて江戸に廻る。今に江戸三分の二は奥州米の由なり」とあります。
この孫兵衛の北上川改修工事による水源、水路の確保が、仙台の経済基盤にど
れほどの影響を与えたか、ご理解いただけたと思います。
銅像制作・寄贈:河北新報社
|