山尾三省重要事項

 独断で重要だと 思うことをまとめておきます。

白川山(しら こやま)
  山尾三省一家が移 住した所。もともと屋久島の北端に一湊(いっそう)という屋久島第一の漁師町があるが、終戦直後に人口増加と数年に渡る不漁続きのため、二、三世帯を中心 にして、海に見切りを付けた人々が背後の山に入植することとなった。その山は白川山と呼ばれ、最盛時には二十八世帯が住んだ。その後時代の変遷と、大きな 台風による鉄砲水で何軒か家屋が押し流されたのを契機に白川山から人々は去ったという。一度廃村になったが、その後日吉真夫・山尾三省が移住。(詳しくは 『聖老人』「廃村から」の章を参照)
 「白川山から一湊の町までは旧道を通れば約四キロ、新道を通れば約六 キロの道程である。道は一湊林道と呼ばれる、営林署の木材運搬用のものであるから、 車の通行に不自由はない。不自由ではないといっても石ころだらけの山道で、一雨降れば道は河底になり、雨が上がると昨日までは見かけなかった大きな石が道 の真ん中を占領していたりする。土はけずられ、岩角ばかりがごつごつと露出する道である。(『聖老人』42ページ)
 「私たちが移り住んだ屋久島大字一湊(おおあざいっそう)、小字白川 山(しらこやま)という場所は、清らかな大きな谷川が流れている山の中だった。谷川 というより川だった。かつてこの地に住んだ人たちはこの川をオオカワと呼んだ。私たち家族が住むことになった家の前で、川幅は少なくとも二十メートル以上 はある。河口の一湊の部落に住む人たちはこの川を白川(しらこ)と呼び、夏でも一分とは手をつけていられない冷たい水と讃えている。私にとってこの川は、 かつて巡礼したガンガー(ガンジス河)の源流に近い聖地、リシケシの激流を想わせるものがあった。リシケシのゲンガーは河幅は少なくとも百メートルはあ り、白川の流れとは水量も川幅も比べものにはならないが、その流れの清らかさという点では同じだった。いや、清らかさという観点からすれば、わが白川山の 白川の方が上かもしれない。」(同376ページ)

聖老人(せいろうじん)
●縄文杉のこと。「こ の島の生態系、ヒトをも含めた生態系の頂点には、七千余年を生き抜き、そして、今もなお生き続ける岳杉(だけすぎ)がある。」(『聖 老人』12ページに引用された日吉真夫「ノアの島」の文を再引用。) 「屋久島では樹齢千年以下の杉は小杉と呼び、千年以 上になると屋久杉という呼び名が与えられるようである。更に五千年、七千年というような途方もない樹齢を持つ杉は特別に岳杉とよばれているようで、このこ とは島に住むようになってから初めて聞き知った。……ひとくちに七千年と言っても、この七千年の内には人類の文明史のほとんどが含まれてしまう時間であ る。岳杉はエジプトでピラミッドが築かれている時代にすでに八重山御岳(おたけ・宮之浦岳)の山中に堂々とした姿を見せていたのであり、四つの古代文明の 栄える様を遠い風の振動の内に聞きとっていたのに違いない。佛陀釈迦牟尼の誕生と開悟と入滅を聞きとり、キリストの十字架上の声も聞きとったことだろ う。」(『聖老人』17ページ)「一日の内に心が乱れた時には、心はすぐに岳杉に瞑想の対象を向ける習慣がついている。岳杉の偉大さは、それがひとつの具 体物であり、宗教的な訓練を経なくても何千年という生存期間の長さの故に、即座に人の心に深い安らぎを与えるという宗教的な作用を与えてくれる点にあ る。」(『聖老人』18ページ)

『聖老人 百姓・詩人・信仰者として』
 初版はプラサード書店より1981年10月刊行。その後第二版が出て 以来絶版。野草社より1988年11月に再版。
「自分の最初の本として、本書に対する思いには格別なものがある。」(野草社版のあとがき、394ページより)

「世界のへその緒」
「かつて、トール・ヘイエルダーが南太平洋上の孤島、イースター島を探検した時に、 島の人々が自分たちの島を「世界のへその緒」という意味の現地語で呼んでいることを知って、驚いたことが報告されている、見渡す限りの大平原の真只中に、 ぽつんど孤立している島は、外部から見れば絶海の孤島であるかもしれないが、そこに住んでいる人からすれば、そここそまさに世界の中心であり、世界のへそ の緒以外の何物でもないだろう。」(『狭い道』29ページ)