山尾三省・周辺の人々(敬称略)

 
山尾三省の本を読んでいると、家族・友人の名前など実名で出てきます。しかしながらそこで の話は、身辺雑記にとどまるものではなく、親子関係をはじめとする家族の問題など、広く人々の関心をひく話題が出てきます。それゆえ、たとえば山尾三省の 実子の名前が出て来ても、それは山尾家に限った話題ではなく、他の子供の名前に置き換えてよむことが可能です。

家 族

 山尾順子(妻・故人)
●「私 は恋をした。/ひとつの恋は、チマという武蔵野美術大学に行ってい る少女への突然の恋だった。チマは、笑 うと眼の奥から金色の光が細く流れてきて、夢中にさせられた」(『聖老人』362ページ)

 太 郎(長男)
● 「我家では、焚木採りの責任者は太郎である。」(『狭い道』第11章「桃の花」180ページ〜参照)
 「桃の花」を読むと、野球の部活動で忙しい中、週一回し かない唯一の空き時間に兄弟をつれて焚木(たきぎ)を懸命に集めにいくのが「太郎」の役目だと書 かれている。三月のある日、山尾家で焚木小屋でぼや騒ぎが起こり、それがもとでちゃぶ台をひっくり返す親子げんかに発展。「僕が母の食卓を怒ってひっくり 返したのは、大学生になってからだった。二年か三年、この野郎、早くやりやがったな、と僕は思った」とユーモラスな記述もあるが、親子げんか六日目、久し ぶりに顔を見せた息子が出かけていく後ろ姿に「その時、何故か僕は太郎が死ににいくのではないかと感じた。」と、一瞬のことではあったが、親として精神的 危機に見舞われたたことをもらしている。
 
● 「太郎に与える詩(う た)」(『聖老 人』「太郎に与える詩」269ページ〜273ページ参照)
 「十三歳になった太郎/やがてはっきりと私のものではな くなってゆくお前に/父親の私はひとつの歌を与える。この歌はやがてお前の人生を指し示す秘密の力 となるだろう…」 で始まり、「父親の私はひとつの歌を与える。/お前の若い胸に突き刺さった棘はお前の力で抜き取れと/父は喜ばしげに 決意をこめて歌うのだ」で終わるや や長い詩である。
 この詩の語り手は親離れしていく子供の姿を見守る父親で ある。しかしその父親の存在がわが子に影を落とす。ここでいう「棘」とは生きていく上で心に突き刺さってくる諸々をさすのだろう。試練と言いかえてもいい かもしれないが、この太郎の「棘」に父親も無関係ではない。詩を読めばそんなことが書いてある。東京五日市の山間部で粗末な家に住む三省一家を、「部落の 人たち」は笑っていたという。「父にはその笑いがまぶしかった/だが子供のお前には その笑いは棘だっただろう」。「部落の人たち」の笑いは、「太郎」の 反応からすれば嘲笑や冷笑の部類だったのかも知れない。「父」は世間が突き刺してくる「棘」をさらりと交わし、貧しいながらも世間とは正反対の自分が望ん だ通りの生活を送っていることに、まばゆいばかりの希望を見たのかも知れない(冒頭付近に「その貧しさには黄金色の誇りがあった」という行がある)。生活の豊かさを求めることが最上と考える周囲と正反対の道を歩んでいれば嘲笑・冷 笑を受けるのは避けられないが、そのことを「父」はなんら恥じることなく「世間との正しい戦い」と述べている。そして「その棘と正しく戦うことは、お前の 人生に課せられた最初の手強い門なのだ」とまで「太郎」に言い放つ。しかしながら、この「棘」を「父の手」は抜けないこともないと言う。では抜いてやれる のに、あえて抜いてやらないのは親の子に与える試練ということになろうか。
 ところが、語り手は親が与える試練以外の試練があると述 べている。「それはお前の優しさ…お前が父と母の愛からではなくて、涙から生まれてきた因縁による優しさなのだろうが…因縁という必死の棘なのだ」。親子 は似たもの同士でも一人の子には父からも母からも授かっていないその子のもって生まれたものがあるということか。逆もしかりで、子には授けなかったものも あるのだろうか。「父」自身もその後で「自分の宿命の棘を抜くことで精一杯なのだ」と、息子とは違う「宿命の棘」を吐露している。家族とは「宿命の棘」に 気づきあえる場ということなのだろう。
 

 次郎(次男)
● 駅伝大会の活躍に嬉々とする父親の姿が垣間見える。「今日は、上屋久町の町内駅伝大会が行われ、僕達の一湊区が見事に優勝した。たぶん駅伝大会はじまって 以来のことだと思う。次郎が一湊一区の代表の二十三人の選手の内、中学生代表三人の内の一人に選ばれていたが、まだ一年生で記録的に望めないし、シイタケ の原木の伐り出しに追われているので、僕は応援には行かなかった。……ところが、一湊区は優勝してしまったし、次郎はまたもや区間賞を出して、賞品の楯と 賞状をもらって意気揚々と帰ってきた。よくやった。」(『狭い道』第2章「出会い」34ページ)。「よくやった」は区間賞だけでなく、大会史上初の一湊区 優勝に息子が貢献したことも含まれるだろう。ところで「次郎」は毎日十キロのロードランニングを欠かさなかったという。「記録や区間賞はともあれ、そう やって真暗な坂道を毎日走ったということを、大人になった時次郎はきっとよい思い出として胸に持つだろう」「中学一年の次郎が、真暗な県道の二・五キロの 坂道を、早いピッチで走り昇ってくるのを見た時、僕の胸に感動があった。それは生きるということは常に結果でも目的でもない、という実証だった。」 くわ しくは「出会い」の章を参照されたい。

 ラーマ・良磨(三男)
「僕の食事の席は、 祭壇を背にした位置で、祭壇にはヒンドゥ教のシーター女神の像が飾られてある。…僕の背後に祭られてあるシーター女神は、高く積まれた薪に燃えさかる火の 中に、結跏趺坐して合掌している姿である。その姿を夫のラーマ王(チャンドラ)が礼拝している姿である。……ヒンドゥ社会ではたいへんポピュラーな絵であ るが、十二、三年前に初めてその絵を見て、何故か胸を突かれた。その絵を見たとたんに、深くシーター女神を愛してしまった。シーターとラーマに心から引か れていた頃に三男が生まれたので、良磨(ラーマ)と名づけたのだった。」(『狭い道』94-95ページ)

 道人(みちと・四男)
「僕という一人の人 間の歩いてきた道、順子という一人の人間の歩いてきた道、子供たちと共に、ヨガとラーガと共に歩いてきた道、たくさんの 仲間達、島の人達の心と共に歩いて来た道の途上で生まれたので、道人と名づけられた。その道は天下の大道であるが狭い道であり、道(タオ)の道であり、仏 陀の八生道の道でもある。道(タオ)の道であり、仏陀の八生道の道でもあるが、どこにでもあるただの道であり、白川山の曲がりくねった道であり、かすかに 海の道であり、山の道でもあった。」(『狭い道』89-90ページ)

 ヨガ・踊我
山尾三省の実子では ない。両親は「部族」の仲 間。両親が亡くなったため、山尾家で暮らすこととなった。(詳しくは『狭い道』第三章を参照)

 ラーガ・裸我
    
同上

 ウメ(祖母)
「祖母は八十三歳で 亡くなったが生涯百姓であった。名をウメといった。その生涯が終 わる日の午前中、祖母は畑に出て唐芋(薩摩芋)の蔓から唐芋を切り離す仕事をした。午後になって気分が悪いのでしばらく休むと言って横になった。しばらく 横になっていたが、息子の叔父を呼んで、抱き起こして座らせてくれと言った。叔父がそうすると、祖母は両手を合わせた。
「婆さまはいまからええとこへ行くで。南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」
そう唱えて往生した。合掌した両手には午前中の仕事の芋蔓のアクがこびり ついたままで、如何にも百姓にふさわしい往生であったという。」(『聖老人』95-96ページ)


 祖父
「祖 母より約十年ほど早く、七十二歳で亡くなった祖父の往生は、また別の味わいを持っていた…後略」(『聖老人』96ページ参照)


屋久島の人々
 柴 哲夫
上 屋久町・町会議員。「屋久島を守る会」会員(『聖老人』11ページ参照)

 

 日吉真夫
 屋久島・白川山 (し らこやま)の先住者(先住者というのは山尾三省よりも先に白川山に住み着いたという意味で)。「日吉がこの地に入って来たのは二年前のことで、私たちが 入ってくるまでこの部落の世帯は日吉一家のみである。」そして、屋久島に渡った直後の山尾三省に「ノアの島」(ガリ版刷りの新聞・発行人は日吉)を渡して いる(『聖老人』12ページ参照) 
 「日吉も僕も昭和十三年生まれで、同時期に学生であり、六〇年の安保闘争を体験した。日吉は東大で、僕は早稲田だった。日吉は当時のブントの情熱的なシ ン パの一人であったと思う。」(『狭い道』63ページ) 


 兵頭昌明
「屋 久島を守る会」会長(『聖老人』11ページ参照)。
「兵頭さんというのは中央気象台の羽田空港分室に十年勤め、雲の観測をしていた人である。勤め始めて丁度十年経った次の日に、上司に辞表を出して「今日で ここを辞めます」と言った。驚いた上司がその理由を尋ねると、「きのうで丁度十年勤めましたので、最初の予定通り島に帰って別の仕事をします。」そう言っ て気象台を辞め島に帰ってきたひとである。(『聖老人』36ページ) 山尾三省にウズラや豚の飼育をすすめた人物(『聖老人』「廃村から」「豚談義」参 照)。




「部族」の仲間
  〜諏訪之瀬島〜
 ゲタオ・高山英夫
 ジョー・加藤賢秀
学生時代はヨットマ ン。インド・ネパールを旅し、「インド・ネパールそしてチベット文化圏に行きたいと強く憧れていた」山尾三省にその旅の話をたくさん聞かせた。詳しくは 『狭い道』第一章を参照)
 ナーガ・長沢哲夫
 ナンダ・秋庭健二




作 家

宮 内勝典(かつすけ)
「そ の頃、一平君という、五、六歳年下の小説家志望の男と知り合った。彼は高校を出るとすぐ上京し、鹿児島の実家に「ワセダゴウカク」の電報を打って、入 学金と一年間の授業料を送らせ、その金でアメリカへ行くつもりだったが、はっきりふんぎりのつかぬまま新宿あたりをうろうろしていた若者だった。……」 (『狭い道』第2章「出会い」35ページ