山尾三省年譜

1938 東京・神田に生まれる
1939
1940
1941
第二次世界大戦中
第 二次世界大戦中の最中、僕は父母の生まれ故郷である山口県の向津具島(現在の油谷半島)の祖父母の家に疎開していた。東京の家を守っている父母と離れて住 むことは淋しかったが、四人の息子をすべて戦場に送り出した祖父母の慈しみの中で、僕は何不足なく幸福な国民学校一年生になっていた。その頃の僕の宝物 は、ジョーロだった。(『狭い道』174ページ 「ジョーロ」はジョロウグモ)
1942
1943
1944
1945
1946
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1948
1949
1950
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1952
1953
1954
1955
1956
1957
1958
1959
1960 早稲田 大学文学部西洋 哲学科中退
「一九六〇年にぼくは大学の三年生だったんです。…」(『アニミズムという希望』 109ページ)
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967 「部族」に参加
1968
1969
1970
1971
1972
1973  インド・ネパール巡礼
 一九七三年の十二 月に私たちはインド・ネパール巡礼の旅に出かけた。私と妻、太郎(十歳)、次郎(六歳)、ラーマの、五人の家族の旅だった。ラーマはまだ二歳にもなってお らず、心もとない旅立ちだったが、時が来てしまったので出かけなければならなかった。私はその旅を放浪ではなく巡礼と決めていた。期間も一年と定め、あら かじめ巡礼する先をほぼ心に描いていた。ヒンドゥーの主な聖地、ベナレス、アーヨディア、ヴリンダーヴァン、リシケシ、ハリドワールそしてダライラマの住 んでいるダラムサラ、カルカッタ郊外のラーマクリシュナのお寺だけはどうしても行かねばならなかった。仏教の四大聖地である、生誕の地ルンビニ、悟りの地 ブッダガヤ、初典法輪の地サルナート、そして涅槃の地クシナガールにも巡礼しなければならなかった。それらヒンドゥーと佛教の聖地を時間をかけて、生活し ながらゆっくりと巡ろうと思っていた。(『聖老人』野草社364ページ)

1974
1975  春 妻順子入院
「日 本に帰って年が明け、春になると彼女がクモ膜下出血で倒れた。一年の旅の疲れが彼女一身に集中し、彼女がそのすべてを引き受けて倒れたもののようであっ た。倒れたその夜、病院の一室で、医師から今晩が峠だと言われた」(『聖老人』370)
「順子は、屋久島へ 来る二年前にクモ膜下出血で倒れ、一週間死線をさまよった。二ヶ月の入院で幸い助かって退院できたが…」(『狭い道』野草社89ページ)
        秋 長本兄弟商会の設立に参加
 「有機肥料による 無農薬野菜の販売という旗印を掲げた八百屋」(『聖老人』311ページ)。代表者は長本光男。当時は有吉佐和子『複合汚染』が出版され、農薬禍や化学肥料 のもたらす悪影響 に世間の関心が集まった時期。長本・山尾らは良心的な農家から無農薬野菜を仕入れ、東京近郊のけやき台団地などで販売した。当初は仕入れが難航し、最初の 販売の時はミカンしか仕入れられなかったが、それでも団地の主婦達に歓迎されたという。その後けやき台団地以外の地域にも販売網は広がっていった。同商会 の特徴をあげると、
・ もうけ主義ではない
   「生産者からはぎりぎりに高く買い、消費者にはぎりぎりに安く売るというのが、商売としてではなく、
   生き方として八百屋を選んだ私たちの誇りでした。」(『聖老人』327ページ)
   「…これを商売として万が一にももうけにかかったならば、その瞬間に私たちの仕事の足場が、
   がらがらと崩れてしまうことがはっきりしてきました。」(同329ページ)
・ 生産者・流通業者(同商会)・消費者の協力
   「生産者と流通者と消費者の三者からなる品物の流れの輪を、
    三者で協力して最もよい形にしていく協同の仕事をしているのだという確信がありました。」(同331ページ)
・ 食品に関する意識改革
   農薬を使った野菜は見た目はきれいだが、無農薬の野菜は見た目の点では劣る。
  「農薬を使わなければキャベツは穴があいて簾のように向こう側が透けて見えるようになるが、
   それでもよいか、と生産者は言いました。それでも売る自信はある、と私たちは答え、それでももちろん買います、
   と二千世帯の消費者の代表である能勢さんは答えました。」(同323ページ)

1976
1977  家族と共に屋久島に移住

 僕は家族五人で、 一年間のインド・ネパールの巡礼の旅に出た。一年間の旅を終えて日本に帰ってきた時、もう東京に住み続ける気持ちはなかった。ナーガやジョーのいる、ナン ダやゲタオのいる諏訪之瀬島に住みたいと思った。けれども土地の問題とか色々な事情があって、諏訪之瀬に住むことにはならなかった。親しい友達と一緒に住 めるのは最上のことだが、諏訪之瀬は島が小さいし、人口が少なすぎるという気持もあった。/どこか南の別の島、と思っていたら「屋久島を守る会」の人達か ら、十五町歩(十五ヘクタール)の山林を無条件で使っていい、という話が伝わって来た。その話を聞いた時、たちまちナーガと旅した時の屋久島の姿が目に浮 かび、七千二百年という樹齢の老杉の、耳には聴こえぬ声が聞こえてきた。/「そうだったのか」/と僕は思った。僕たちは屋久島に住むことになっていたの だった。早速、屋久島の案内書を手に入れて、順子や子供達に見せた。何枚かのカラー写真が載っており、その内の一枚に、雪をかぶった永田岳の写真があっ た。当時四歳かそこらのラーマがその写真を見て/「ポカラだ」/と言った。/ポカラというのは、ヒマラヤ山麓の静かな村で、僕達一家は約一ヶ月間その村に 住んで、朝も昼も夕方も月夜には夜にも、ヒマラヤを仰いで過ごした。フェワ湖という名の大きな湖もあった。ラーマが/「ポカラだ」/と言ったので、順子は それなら屋久島に住もうと決めた。順子は、一年間の巡礼の旅の間で、ヒマラヤを仰いで過ごしたポカラの一ヶ月間が、一番楽しい日々だったと言う。(『狭い 道』103-104ページ)

 四月四日の夕方、私たち家族五人と白猫一匹、それに東京からはるばる四トントラックを運転してきた仲間の二人は、貨物専用フェリーをゆっくりとすべり出 して屋久島宮之浦港の岸壁に降り立った。……あらかじめ到着の電報を打っておいたので、友人であり私たちがこれから住もうとしている土地での先住者でもあ る日吉真夫が迎えに来ているはずだが、ときょろきょろしているうちに、いきなり私の横に一台のトラックが停まり、中から作業衣姿の三人が降りてきた。屋久 島を守る会の会長である兵頭昌明さん、同じく会員であり上屋久町の町会議員もしておられる柴鉄生さん、それに日吉の面々で、この人たちに会うと、もうその 瞬間からこの島での新しい生活が始まっているのであった。(『聖老人』11ページ)

 もしこの島に屋久杉あるいは岳杉と呼ばれる杉がなかったとしたならば、多分別の場所を選んだだろうという気がしている。(『聖老人』17ページ)




1978
1979
1980 
「東 京からアニキこと高橋正明と、イイナこと林健二郎が来るという。イイナは以前にも白川山に来ているが、アニキは初めてである。アニキとは数年前に『約束の 窓』という詩画集を出した中で、僕の最も親しい仲でも親しい友達だった。僕は、その人のためだったらどんなことでもしてあげたいという古風な友情を感じる 友達は少ないが、アニキにはそれを感じた。もう一人、諏訪之瀬島に住んでいるナーガがいるが、そのナーガも少し遅れて一家で白川山に来、アニキ、ナーガ、 僕の三人が、この土地で顔を合わす筈だった。…」(『狭い道』230ページ)

1981  『聖老人 百姓・詩人・信仰者として』刊行(プラサード書店・絶版、野草社1988)
1982 『狭い道-子供達に与える詩』刊行(野草社)
  「今年のお正月には、例年とほぼ同じか少し多い目の、厚さ二センチ半ほどの年賀状が届いた。…ジョーの年賀状には/「孤独」/という文字が葉書の中央に墨 で書かれてあるだけだった………ジョーによると、宇宙という存在は宇宙内存在である人間に対して、相対的にエネルギー的に見てプラスの存在としてある。人 間はエネルギー的に見て常に宇宙に対してマイナスの存在としてしかあり得ない。この存在事実というか存在様式が人間の宿命である。しかし、この存在様式が 続く以上は、人間は宇宙と調和することはできない。どうすれば人間の永遠の願いである宇宙との合一、宇宙との調和を実現することが出来るかというと…」 (『狭い道』15ページ………21ページ。)
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
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1997
1998
1999
2000
2001 胃癌のため逝去 享年62歳