名人梅田佳声氏のもと、盛況のうちに終えた紙芝居「猫三味線」であるが、全五十六巻のうち四十九巻と五十一巻が欠巻となっていた。で、ここでは「お豊」はなぜ、どのように死んだのかが描かれていたはずの五十一巻を探ってみようと思う。「大之進」の娘「お豊」は同じく「大之進」の娘「お玉」と異母姉妹であり、五十巻まで「お豊」は「お玉」を知らない。つまり、父親の悪行をまだ知らないで眠っている。そして悪行を知っている「お玉」はそれとは別に「お豊」の顔を舐め回し始める。そして、五十二巻では「お豊」は死んでしまっている。で、ある。ここで興味深いのは「お豊」と「お玉」は似ているということだ。そしてそれはなにに似ているのか? 間違っても境遇が似ているなどと答えると足下をすくわれてしまう。この紙芝居全編に通じて二つの似ているモノとはなにか。それは、死者(霊魂)と死体(死骸)だ。二つは同じモノだった。だからこそ、似ているのに全く違うモノだ。でも、「お豊」は生きていたではないかと問う前に「お玉」とはなにモノか? だ。「お玉」はどこから生まれてきたのか。正確には「お玉」は、ニャオーンというコトバから生まれたのだが、「お玉」はこの物語の中でどのようしてに生まれたのか。いうまでもなく飼い猫お玉の(霊魂)が実体であり、妊娠していた「お光」の子どものカラダとして生まれたのではなく、そこにカラがあったのだ。そこが、「お玉」であり、それが「お玉」なのだ。そしてまぎれもなく飼い猫「お玉」の(死骸)は三味線である。そう、「お玉」とは、飼い猫「お玉」の(霊魂)と「お玉」の(死骸)=カラなのだ。では、追いやられた「お玉」の(霊魂)はどこへ行ったのか? 生まれてもいないのに(霊魂)はあるのか? あったのだ。「お玉」の(霊魂)はそのまま「お豊」であり、「お豊」ははじめから肉体をもたない「お玉」の(霊魂)そのものとしてそこにあるのだ。だから「お玉」と「お豊」は奇妙に似ているのだ。つまり、五十二巻で「お豊」は死んでいたとあるが、最初から人間として生きていたわけではなく、「お豊」は登場した時点ではじめから死んでいた「お玉」の(霊魂)なのだ。

 さて、それでもなお失われた五十一巻の画を描かなければならない。どのようにして「お豊」は死んでしまったのか。(すでに死んでいるのに)どう描くか? よくよく考えてみると『猫三味線』に見られる手法で、すりかわりが多く見受けられる。「大之進」は「喜助」となり、「お清」は妾から江戸屋の妻に、「お玉」を育てるのは「お光」から「お時」にすりかわる。そして、なんと五十二巻では「お清」がすがりついているはずの「お豊」が見事に「お玉」にすりかわるのだ! たぶん、おそらく、「大之進」は「お玉」を、飼い猫「お玉」を殺したときと同じよう絞め殺したのではないか。そしてその時「お玉」は「お豊」にすりかわった、と見るのが自然な流れだろう。だから、恨みから「お玉」が「お豊」を殺したのではなく、又「お豊」が境遇を知って自殺したと見るのは馬鹿げている。梅田氏も言っていたが、「お豊」殺しには血の匂いがしないのだ。

 ではまず、この考察を元に五十一巻のプロットを書いてみよう。

■ 二人が襖を開けると、そこには目をランランと輝かせたお玉がいるのだった。
■ やにわにお玉に飛びかかる大之進、ひらりとかわすお玉。
■ 逆に大之進に飛びかかるお玉。
■ お玉は振り払われ柱に体を打つ。
■ 今とばかりにお玉の首を絞めにかかる大之進。
■ お玉の苦悶の表情。
■ 見かねたお豊が「お父さんやめて!」と駆け寄る。
■ 構わず絞め殺す大之進、悪漢の顔。
■ ぐたりとするお玉、してやったりの大之進。
■ だがお玉の顔を起こすとそれは娘のお豊だった。

 と、なるか。ここはアクションシーンが中心なので、セリフにかんしては少なめにして、画で見せることを心がければいいのではないかと思う。

 ひとまずこのような結論を得たわけだが、これはあくまでも一つの仮説に過ぎず、やはり五十一巻の真相は以前として謎のままなのであり、「お清」を殺す「お玉」や家族の霊魂が一緒になるくだりもあり、なおいっそう検討の余地がある。