初代仙台藩主
伊達政宗

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伊達政宗胸像(仙台市博物館裏庭)】          【仙台伊達家二十四将(涌谷町立史料館蔵品)
  【伊達政宗尊像(瑞鳳殿内)

【名前】 伊達政宗(だてまさむね)
【生没年】 永禄10年8月3日〜 【享年】 70 【山号】 貞山      
寛永13(1636)年5月24日
【実父】 伊達輝宗 【実母】 義姫(最上氏) 【夫人】 愛姫(田村氏) 
【公子】 秀宗忠宗、宗清、宗泰、宗綱、
宗信、宗高、竹松丸、宗實、宗勝
【公女】 五郎八、牟宇、某、千菊


最後まで天下を夢見続けた男・独眼竜政宗
 【誕生
  永禄10(1567)年8月3日、米沢城にて伊達家16代当主輝宗と最上   義守の息女、義姫との間に生まれる。義姫が出羽三山に祈願し、夢のお告げで  生まれたためその幼名を梵天丸と名付けられる。嫡男誕生に輝宗はおおいに喜  びその成長を楽しみにしていたが、梵天丸5歳のときに疱瘡を患い、命は無事  に取りとめたものの結果的に右目を失明することになった。
 【相続
  この「疱瘡による失明」は幼少の政宗の精神的な部分にも暗い影を落とす。  失明した右の眼球は醜くもまぶたから飛び出し、そのため政宗は以上なまで人  前にでることを嫌ったという。そのため、伊達家中ではこのような政宗に対し  「将来、伊達家を託すにいたらず」の声も聞かれるようにになった。しかし、  この政宗の陰鬱な性格は後に政宗の軍師として活躍する片倉小十郎景綱のとっ た行動により一変する。当時、小十郎は伊達成実、原田左馬之助等とともに政 宗の養育掛りを務めていた。この小十郎は政宗の要求に対し、その醜くく飛び  出た眼球を小刀で取り除いたのである。この行動は幼少のころより政宗の心の  内にあったコンプレックスをも同時に取り除いたことになり、この日より後に  近隣諸国から「独眼竜」として畏怖される、伊達政宗が誕生したことになるの  である。当然、家督は長男が相続することが原則である。しかし、政宗の家督  相続には全く問題がないわけではなっかた。政宗の母義姫は幼少のころより醜  い容姿の政宗を遠ざけ、次男の竺丸を溺愛していたのである。この義姫の行為  は家督を嫡男政宗ではなく、次男竺丸に相続させるということにまでいたり、  ここに伊達家中は政宗支持派と竺丸擁立派の2つに分裂するのである。これら  はまさに輝宗が最も恐れていたことであるが、ここで輝宗はこれらの状況を打  破するためにある決断をする。当時、政宗18歳、輝宗41歳。輝宗は隠居す  るにはあまり早く、政宗にしても家督をつぐにはあまりに早い年齢である。と  ころがその年に、輝宗はまさに竺丸擁立派の機先を制するがごとく、政宗に家  督を譲り、自身は隠居してしまうのである。この輝宗の行為に義姫は狂乱した  というが、輝宗自身、父親との抗争を経験していることから兄弟同士の抗争を  未然に防いだともいえる。
 【戦い
  政宗が家督をついで以後、転機となった戦にはまず、人取橋合戦が上げられ  る。これは畠山義継の手によって非業の死を遂げた父輝宗のいわば弔い合戦で  ある。天正13(1585)年、輝宗の七日の忌を終えた政宗は即座に畠山義  継の居城、二本松城の攻略に乗り出す。しかし、政宗の思惑に反し、二本松城  は落ちなかった。しかも、おりから降り続いていた雪が大吹雪になったため、  政宗は兵の撤退を指示する。そしてこの時、政宗を驚嘆させる情報が政宗のも  とにとどく。佐竹、芦名を主軸とする大連合軍が二本松城救出のため行動を開  始したのだという。ここに戦場は二本松城から、人取橋へと移行するのである。   政宗を筆頭とする伊達軍八千は観音堂山に本陣を置き、3倍以上の兵力であ  る佐竹、芦名連合軍三万を向かい打つ。戦いは伊達軍の生命線ともいえる人取  橋をめぐり一進一退の攻防が続いたが、兵力差で優位の佐竹、芦名連合軍が除  除に伊達軍を追い詰める。このまま戦が続けば佐竹、芦名連合軍の勝利は確実  と思われたが、突如、優勢のはずの佐竹、芦名連合軍が撤退を開始したのであ  る。まさに伊達軍にしてみれば突然の「奇跡」が起こったのである。結果的に  この人取橋合戦は伊達軍の勝利となった。この佐竹、芦名連合軍の謎の退却に  ついては佐竹義政が刺殺されたためとされている。この人取橋合戦の勝利は政  宗に大きな自身を与えた。翌天正14年、再び二本松城を攻略し、城主畠山国  王丸は会津へ落ちのびる。そして、政宗はここに至って、芦名領への進行を開  始する。芦名領内の安子ヶ島、高玉の両城を攻略した後、さらに進行しを続け、  伊達、芦名の両軍は摺上原の地で対峙することになる。伊達軍2万、芦名軍1  万6千。辰の刻(午前8時)に戦火の火蓋は切って落とされた。兵力の差のみに  着目しても、前回の人取橋のときとはまるで立場が逆である。さらに、芦名側  の裏切り、離反も加わり、この摺上原の合戦は伊達軍の圧倒的勝利で幕を閉じ  た。
 【主従
  この摺上原合戦の勝利の後、政宗は旧芦名領を併合。南奥州の仙道七郡を手  に入れ、奥羽66郡のうち、実に30余郡が政宗のものとなった。政宗はよく、  「遅れてきた戦国武将」といわれる。政宗が奥羽の外に目を向けようとしたそ  のとき、すでに日本は豊臣秀吉という「立身出世」の代名詞ともいえる人物の  手によりまさに統一されようとしていた。政宗はこの天下人に臣従するのか、  それとも徹底抗戦するのか重大な決断を迫られていた。家中も臣従、抗戦に意  見が分裂するが、片倉小十郎景綱の進言を受け入れ、豊臣秀吉の小田原北条攻  めに参陣することを決心した。しかし、この政宗の小田原城への参陣はあきら  かに機を逃したものであった。秀吉の行動があまりに敏速であったということ  もあるが、政宗自身、参陣を決意した直後、母保春院(義姫)に毒も盛られる  という事件が起こったのである。次男小次郎(竺丸)を溺愛し、政宗を疎んでの  行動だった。政宗は一命をとりとめたものの、小田原へは遅参、秀吉に謁見す  ることは許されず、謹慎をいいわたされる。後に秀吉に謁見を許されたとき、  政宗は死装束でその場に臨んだ。まさに、死を覚悟しての行動である。しかし、  秀吉の機嫌のよさも手伝ってか、政宗は一命をとりとめる。その代わり、政宗  が多大な犠牲を払って手に入れた旧芦名領、会津、岩瀬、安積などの諸郡を没  収されるのであった。この後も政宗は秀吉に臣従し、朝鮮の役等にも出兵する。  そして、次に政宗に重大な転機が訪れるのは、太閤秀吉の死後、日本が東西に  わかれ次なる天下人を決める決戦が始まるそのときである。政宗自身、「天下  は実力のあるもののまわりもち」という考えをもっていた。これは政宗が次な  る天下人が太閤の遺児、秀頼ではなく、徳川家康であるということを予期して  いたことになる。事実、太閤秀吉の死後、秀吉の取り決めを無視し、家康六男  忠輝、政宗長女五朗八姫を婚約させその結びつきを強めている。そして、家康  が「三成挙兵」の報をうけ、会津征伐より上方に軍勢を引き返す際、政宗は迷  うことなく家康(東軍)側につき、家康の背後を衝こうとする上杉景勝と交戦  する。
 【治世
  周知のとおり、関ヶ原の合戦は家康方(東軍)の大勝利で幕を閉じた。この  報は伊達政宗、最上義光等と交戦中であった上杉景勝のもとにただちに知らさ  れ、景勝は撤退を開始する。ここで長谷堂城を巡る直江兼続と最上義光の攻防、  伊達政宗による上杉領白石城の奪還など「東北版関ヶ原」ともいうべき一連の  戦いは終結したのである。しかし、政宗はこのまま兵を撤退させなかった。ま  さに全国が争乱にあるさなか、政宗は好機到来と考えこの混乱に乗じてにわか  に行動を開始したのである。1つは信夫郡、伊達郡に対する侵攻、そしてもう  1つは南部利直が出陣中で留守であるの利用して一揆を扇動させたのである。  つまり政宗は関ヶ原の混乱を利用して旧領を回復させるといういわば「火事場  泥棒的行為」を行ったのである。特に、和賀忠親を利用しての一揆扇動は著し  く家康の機嫌を損ねた。関ヶ原後の論功勲章では「百万石のお墨付き」が与え  られていたのにも関わらず、2万石のみの加増となったのはこのためである。  しかし、政宗の所領である62万石は外様大名の中では加賀前田家の102万  石、薩摩島津家の73万石についで全国で3番目という破格のものであった。  以後、政宗は家康に対しては従順な態度をとり、初代仙台藩主として自領の基  盤整備に取りかかるのである。   政宗はまず新田開発でその経営手腕を発揮する。前述どおり家康から与えら  れた所領は62万石であった。しかし、政宗は大規模な新田開発を行い、この  「表高」に対し、仙台藩の実際の生産力を示す実質石高は100万石を越えて  いたといわれ、諸説によっては200万石、250万石ともいわれている。し  かもこれら剰余の米に対しては爆発的に人口の増加した江戸に廻漕し商いを行  っていたのである。江戸の米の3分の2は奥州米といわれ、政宗の新田開発か  ら得られた経済効果は仙台藩に相当な富をもたらしたといえる。   次にあげられるのは外交政策である。政宗は1613(慶長18)年に支倉  常長等を慶長遣欧使節としてスペインに派遣している。これは「奥州王」伊達  政宗が切支丹奨励を条件にスペイン国王との独自の貿易協定を結ぼうとしたも  のである。通商の他にも渡航術、鉱山技術なども習得しようとしていたようで  ある。しかし、この政宗独自の外交は幕府の政策により挫折を強いられる。ち  ょうど遣欧使節の派遣と前後して、幕府は日本国内におけるキリスト教の信仰  を禁じ、切支丹に対して大弾圧を加えたのである。つまり、政宗が提示した切  支丹奨励と奥州に対する宣教師派遣は幕府に対しあらぬ嫌疑をかけられる可能  性があったのである。政宗はついに仙台藩においても切支丹の弾圧にのりだし、  支倉常長等はさしたる成果もなく、1620(元和6)年帰国するのである。
 【晩年
  元和年期(1614年以降)にはいると徳川幕藩体制も一応の安定期にはい  り、もはや「戦国武将」と呼ばれた人々の天下とりの野望や領土欲などという  ものもまさに消え失せようとしていた。政宗についても同様である。仙台藩も  幕藩体制と同様、政宗の領国経営により、安定期にはいろうとしていた。政宗  がその藩政から一線を退くようになったのはこのころとされている。 徳川秀  忠は臨終に際し、政宗を枕もとに呼び寄せ三代将軍家光の後見を依頼している。  このころになると群雄割拠の戦国時代を生き抜き、健在しているのは政宗ぐら  いである。そのため、他の大名の押さえとして政宗に後見を依頼したものと思  われる。しかし、このとき政宗もすでに66歳。江戸の桜田屋敷にてその波乱  に満ちた生涯を閉じるのはこの4年後である。


参考文献

学研 歴史群像シリーズ19 伊達政宗【独眼竜の野望と咆哮】
今野印刷 伊達邦宗 伊達家史叢談
伊達泰山文庫 伊達泰宗 伊達氏系図(巻二)戦国時代から近世大名へ
−伊達政宗の時代−
伊達泰山文庫 伊達泰宗 伊達政宗人物史−伊達政宗年表−
宝文堂 平重道 仙台藩の歴史1 伊達政宗・戊辰戦争


関連史跡
岩出山城跡瑞鳳殿仙台城跡仙台市博物館裏庭若林城跡
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