【在任中に天明の大飢饉】
宗村の第2子として生まれ、延享4(1747)年に世子となり国村と称す
る。宝暦5(1755)年に元服し将軍家重の一字を賜り、「重村」と称して
仙台藩の藩政に取りかかる。
重村藩主就任直後は一関藩主田村村隆がその補佐の任にあたった。この村隆
は藩財政の建て直しを行うにあたり人事の刷新を検討、特に士風の衰えた昨今、
怠慢な奉行等を処罰するなどしてその決意を周囲に示した。
重村はこのような後楯を得て藩政の舵取りを行うが、重村在任中に起こった
最大の出来事といえば天明の大飢饉である。逼迫した藩財政に追い打ちをかけ
るように起こった大飢饉は天明3(1783)年時には56万5000余石の
大減収をもたらすほどで、仙台藩内でも打ちこわしが続出しそれらの対策が藩
政の急務となった。重村は財政の緊縮、勤倹、備荒貯金の奨励、奢侈の禁止な
どをその対策とするが、しかし、この天明の大飢饉によって仙台藩内では30
万人以上の死者と出すという結果となってしまった。重村は和歌を極めるなど
非常に教養も高く、また積極的に学問を奨励するなど名君の器であったとされ
るが、このような非常天災が続出した時期に藩主となったことはまさに「不運」
というほかない。
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