第七代仙台藩主
伊達重村

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仙台伊達家歴代(涌谷町立史料館蔵品)

【名前】 伊達重村(だてしげむら) 【在位】 1756〜90
【生没年】 享保2(1742)年4月19日〜 【享年】 55 【山号】 徹山
寛政8(1796)年4月21日
【実父】 伊達宗村 【実母】 阿與世(側・坂氏) 【夫人】年子(近衛氏)
【公子】 總三郎、 斉村、仙三郎、某
【公女】 某、助子、詮子、暾子、呈子、
甫慈、籌、某、謹子


在任中に天明の大飢饉
  宗村の第2子として生まれ、延享4(1747)年に世子となり国村と称す  る。宝暦5(1755)年に元服し将軍家重の一字を賜り、「重村」と称して  仙台藩の藩政に取りかかる。    重村藩主就任直後は一関藩主田村村隆がその補佐の任にあたった。この村隆  は藩財政の建て直しを行うにあたり人事の刷新を検討、特に士風の衰えた昨今、  怠慢な奉行等を処罰するなどしてその決意を周囲に示した。   重村はこのような後楯を得て藩政の舵取りを行うが、重村在任中に起こった  最大の出来事といえば天明の大飢饉である。逼迫した藩財政に追い打ちをかけ  るように起こった大飢饉は天明3(1783)年時には56万5000余石の  大減収をもたらすほどで、仙台藩内でも打ちこわしが続出しそれらの対策が藩  政の急務となった。重村は財政の緊縮、勤倹、備荒貯金の奨励、奢侈の禁止な  どをその対策とするが、しかし、この天明の大飢饉によって仙台藩内では30  万人以上の死者と出すという結果となってしまった。重村は和歌を極めるなど  非常に教養も高く、また積極的に学問を奨励するなど名君の器であったとされ  るが、このような非常天災が続出した時期に藩主となったことはまさに「不運」  というほかない。


参考文献

今野印刷 伊達邦宗 伊達家史叢談
瑞巌寺 瑞巌寺と伊達家
踏青社 伊達宗弘 みちのくの指導者、凛たり−伊達八百年の歩み−
宮城文化協会 仙台城歴史散策 青葉城の盛衰とロマン


関連史跡
仙台城跡大年寺跡観瀾亭


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