サン・ファン・バウティスタ号

(宮城県石巻市渡波宇大森30−2 宮城県慶長遣欧使節ミュージアム内)
       

  ●伊達の黒船、史上最大級のガレオン船!!  サン・ファン・バウティスタ号は支倉常長ら慶長遣欧 使節団の使節船として、伊達政宗の命により建造されま した。この船名「SantJuan Bautista」は「洗礼者・聖 ヨハネ」に由来すると伝えられています。当時の世界最 高ともいえる技術で建造され、月浦を出帆、日本製の木 造洋式帆船として初の太平洋二往復に成功し、支倉常長 の偉業とともに多くの人々に感動を与えています。  画像のサン・ファン・バウティスタ号は380余年の 時を経て復元、現在に甦ったものです。しかし、この船 の復元に際し、様々な困難があったことは素人の我々に でも容易に想像することができます。復元に至るまでの 過程を以下にまとめてみました。

(1)復元・船体その1

伊達の黒船、目指すは「完全復元」!!  歴史的建造物(この場合は船ですが)を復元する際、 当時の技術を使い史実どおり忠実に再現するか、それと も現代建築物として再現し、外観のみを復元するのか2 通りにその復元方法は分かれます。通常は技術的な問題、 そして完成後の防災などの理由から後者を選択する場合 が多いようです。しかし、このサン・ファン・バウティ スタ号についてはあえて難易度の高い前者を選択してい ます。そして当時の姿を限界まで復元するというこでそ の作業が開始されました。  「慶長遣欧使節」ということばは日本史の教科書にも 登場しています。戦乱の世が終わり、泰平の世への土台 が築かれていた江戸初期に、このローマという遠い異国 への使節派遣は当然ながら我が国の外交史上、最も重要

(2)復元・船体その2

  な事柄となるはずですた。しかし、以外にもこれらの使 節団に関連した資料は少なく、バウティスタ号について も同様で、貞山治家記録内の寸法の記述、ソテロの報告 書の500トンという総量、そして支倉常長像の背景に ある船のイメージから他の西洋帆船の姿を当てはめ、そ こから復元作業が始められました。具体的な寸法につい ては貞山治家記録に「横五間半、長十八間、高十四間一 尺五寸、帆柱十六間三尺、弥帆柱九間一尺五寸」という 記述があり、仙台城の柱間は一間が6尺5寸の京間で造 られていることから1.97mと考証、船のおおよそ寸 法を割り出しました。  次に実際に船の建造に取りかかりますが、またここで 1つ問題が発生します。それは船大工の人材不足(高齢 化)という問題です。前述のとおり、380余年も前の 帆船を復元するには伝統的かつ高度な技術を要した船大

(3)復元・船体その3

  工の存在が不可欠です。しかし、この問題についても「 最後の大棟梁」といわれた村上定一郎氏(当時86歳) が40名以上の大工を招集し、見事にその大役を果たす のです。またこれら作業に使われた木材はそのほとんど が旧仙台藩領内の牡鹿半島の山々より伐採されたものが 使用されました。こうして伊達の黒船・サン・ファン・ バウティスタ号は現在に甦ったのです(船内には常長ら 使節団の人形があり、内部に至っても忠実に再現)。 ●参考文献 学研 歴史群像戦国ベストセレクション    風雲伊達政宗 伊達泰山文庫 伊達泰宗 伊達政宗の南蛮遣使             −慶長遣欧使節 要説− 及び宮城県慶長遣欧使節ミュージアムパンフレット

(4)復元・船体その4

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