円福寺(支倉常長墓所)

(宮城県川崎町支倉)
       

  ●複数ある墓の1つ、近くには上楯城跡  前述のとおり、宮城県内には支倉常長のものと思われ  る墓所が3ヶ所存在し、この円福寺の墓所はそのうちの 1つ(残りは大郷町東成田、光明寺)です。それぞれの 墓所にそれを支倉常長のものとする根拠があり、この円 福寺の墓所も例外ではありません。以下のその根拠を追 っていきたいと思います。 ●上楯城は支倉家累代の城  この円福寺は上楯城跡のある山の一角に建てられてい ます。この上楯城は別名・支倉城とも呼ばれ、支倉家累 代の居城で、常長養祖父・十四代紀伊常正の頃(154 3年)にほぼ完成したと伝えられています。中世連郭式 の山城に分類されますが、現存する建物はありません。 外濠、内濠の濠跡がかろうじて当時の名残を今に伝えて

(1)支倉常長墓所

います。常長のものと伝えられる墓(宝篋印塔・画像) はもともと支倉家累代の菩提を弔うために建てられたも ので、口碑や伝説がこの場所に常長の遺骨を埋葬したと 伝えています。確かにこの地に支倉家累代の城、領地が あるならばその地に埋葬されるのはむしろ当然のことと 考えられます。また円福寺には脇仏として仏像に模した マリア観音があり、あたかもキリシタン・常長本人の菩 提を弔っているようにも思えます。さらに平成3年8月 に至り、使節に同行したとされる人物のイカリ印のつい た墓石も発見され、これらの説を非常に強く裏付けして います。 ●派遣以前の常長とその人選理由は?  墓所が特定されていないのと同様、帰国後の常長の様 子を伝えるものはほとんどありません。では、使節団と

(2)支倉常長の墓(宝篋印塔)

  として海外外交に派遣される以前の常長は伊達家中にお いてどのような活躍をしていたのでしょうか。常長は元 亀2(1571)年山口常成の子として生まれ、その後 伯父の支倉常成の養子となり支倉家を継ぎます。家禄は 600石でけっして高いとうわけではありません。政宗 の主要な戦にほとんど参戦しているようですが、特に目 立った武功というものはなく、使節派遣より前の段階で 常長の名前を目にすることはほとんどありません。自分 の知る限りでは「成実記」内の「葛西家御成敗(=葛西 ・大崎一揆討伐)代官は・・・支倉飛騨(=常長父)、 同六右衛門(=常長)以下数百人・・・」ぐらいです。 つまり、今でこそ知名度の高い常長ですが、家柄、勲功 などにおいては他の家臣、成実、小十郎、あるいは茂庭 氏などにははるかに及ばないのです。使節団に選任され なければまず歴史に名を残すとことは無かったと考えら

(3)上楯城本丸跡

  れます。使節の人選については政宗の野望がもし幕府側 に露見した場合、政宗は「証拠隠滅」を行わなければな りません。もし伊達家譜代の重臣を派遣した場合ではこ の証拠隠滅に様々な不都合が生じます。「中級家臣で外 交手腕のあるもの」として常長は人選されたと考えられ ます。つまり、今でこそ常長の偉業は多くの人々に讃え られていますが、当時、常長は「自分は伊達家の捨て石」 という覚悟を決めて船出していたのかもしれません。 ●参考文献 秋桜社 切田末良 支倉常長と胆沢町          常長終焉地を探る 宝文堂 紫桃正隆 危うし獨眼龍          −伊達政宗の見果てぬ夢− 講談社+α文庫 児玉幸多 日本史人物事典 及び川崎町教育委員会、川崎町観光協会作成現地説明板

(4)円福寺からみた川崎町内の風景


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