支倉常長メモリアルパーク

(宮城県大郷町東成田)
       

  ●7年の歳月を費やし無事帰国。その後の常長は?  慶長遣欧使節として大海を渡った支倉常長。おそらく 地元・宮城では伊達政宗に次いで知名度の高い歴史上の 人物ではないでしょうか。しかし、その知名度の高さと は反対に支倉常長の生涯、特に帰国後のその痕跡につい てはあまりよく知られていません。墓所についても同様 で、確認されているだけで宮城県内に3ヶ所存在し、そ れぞれについて諸説があり、どの墓に常長が眠っている かは特定されていません。この「支倉常長メモリアルパ ーク」はその墓所の内の1つ(残りは光明寺、円福寺) で、常長の墓及び義兄・常次の墓が存在します。  慶長遣欧使節の目的については月浦のページで説明し ました。しかし常長らは数々の貴重な南蛮渡来の品々を 持ち帰りましたが、「外交」という点においては何ら成 果を得られずに帰国したことになります。幕府公認の通

(1)入り口

商貿易から政宗の「密命」に至るまで、全てが成し遂げ られなかったわけです。これは使節団にとって不利な情 報がすでに相手国側に伝わっていたこが最大の原因とな っています。その情報とは (1)幕府の禁教令、それに伴うキリシタン大弾圧の実情 (2)「奥州王」伊達政宗は奥州独立国の王などではなく   「日本国皇帝」徳川家康の一臣下であること 特に(1)はローマ側の使節団に対する信用を著しく失 墜させます。最初は静観していた政宗も最終的には仙台 領内で大規模な弾圧を行っています。また、使節随行の ビスカイノとソテロの不仲などもこれらに関係している ものと考えられます。常長は主君の使命を何としても成 し遂げようと必死に交渉を続けますが、時間が経過すれ ばするほど常長らの立場は不利になっていくのです。ス ペイン政府は支倉らの国外退去命令もだしており、結局、

(2)支倉常長銅像

  常長は外交上の成果は何も得られないまま、帰国するの です。 ●元和8(1622)年支倉常長没す。しかし・・・。 前述のとおり、支倉常長の墓は複数存在します。この 地を常長の墓とする説は「成田村隠遁説」などと呼ばれ ています。この説の根拠となるのは墓石にある碑銘の「 梅安清公禅定門承応三年二月十七日支倉氏」という部分 です。支倉常長は帰国の2年後の元和8(1622)年 に52歳で病死したと伝えられています。しかし、この 碑銘を事実とするなら、常長は承応3年、84歳まで生 きたことになります。「成田村隠遁説」はキリシタン大 弾圧が行われていた時世、ローマに行き洗礼を受けたキ リシタン・常長に対し、仙台藩が虚偽の死亡届けを幕府 に提出し、人目に触れないこの成田山中に隠棲させ静か

(3)支倉常長の墓

  に余生を送らせたというものです。そして同地には支倉 別家で義弟新右衛門常次の墓もあり、この家中のものが 代々墓守をしてきたとうものです。常長だけでなく、義 兄の墓も存在するわけですから、何となく信憑性がある ようにも思えますが果たして・・・。 ●参考文献 学研 歴史群像戦国ベストセレクション    風雲伊達政宗 伊達泰山文庫 伊達泰宗 伊達政宗の南蛮遣使             −慶長遣欧使節 要説− 宝文堂 紫桃正隆 危うし獨眼龍          −伊達政宗の見果てぬ夢− 及び宮城県文化財保護協会、大郷町教育委員会作成 現地説明版

(4)義兄・常次の墓

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